エクセン物語

不況の波にもまれて

エクセン物語 第3章
第3話 : 不況の波にもまれて

 平成3(1991)年、さまざまなアイディアとリーダーシップを発揮してきた三代目社長が就任した頃、会社は大きな波に飲み込まれようとしていた。いわゆるバブル崩壊である。それまで作れば作っただけ売れていた建設機械が次第に売れなくなる。無限に上がり続けるように思えた土地の値段と株価も、次第に下がりはじめた。その勢いは建設投資にも影響を及ぼすこととなる。

 ただ、業績に影響が出るまで少し時間がかかった。新社長が就任してすぐに売り上げは70億を突破。平成に入ってしばらくは「作れば売れる」体制が続いていたため、平成4(1992)年にニュージーランドでの代理店会議、平成6(1994)年のラスベガス社員旅行、平成8(1996)年にはオーストラリアへの社員旅行など、予算をかけたイベント的な催しも行っていた。その間、売り上げ100億も視野に入れ、静岡出張所、金沢営業所なども開設したものの、他の会社と同様、バブルの勢いはここで止まることとなる。上昇の二文字しかないなかった業績が、ガクンと落ち込んだ。

 給料が5年後には3倍になる時代から、一気に昇給ストップとなり、定期的な採用も控えた。企業として、ここを乗り切らねばとの思いで、工夫を凝らした営業作戦を展開するも、不況の二文字に会社は翻弄されていく。既存の戦力のみで対応していくも、決定的な打開策に至らない。そしてついに、会社存続のため、歴代社長では初となる決断を秀一はすることとなる。つまり、リストラである。ベテラン社員向けに希望退職を募った。三代目社長として、もっとも苦しく辛い時代だった。

 そんな中、新たな取り組みとして会社のホームページを立ち上げたのが平成9(1997)年。システム室有志の手作り感満載の内容ながら、これから到来するコンピュータ時代に乗るべく、企業PRを始めている。単なるPRだけでは面白くないと、社長のページを作り、秀一も自らの個性を発揮しながら毎週のように記事をアップ。それは後にブログに姿を変え、今も続けている。

 新規事業としてランマー、プレート、小型振動ローラーなどの転圧機にも参入したのもこの頃だった。しかし、原点であるコンクリートに対する熱い思いは常に会社内にあった。「100年もつコンクリートを世の中のために生かす」を企業理念としたのも、この時代だった。きっかけは、平成7(1995)年1月27日の阪神淡路大震災。ビルや高架道路が倒壊し、街としての機能を失った神戸の衝撃的映像を目の当たりにした社員一同は、大きな衝撃を受けた。そして、

「コンクリートは100年持つはずじゃなかったのか?」

「我々は、どんなことがあっても100年持つコンクリートを作るため、原点回帰しなければいけない」

との強い思いを持ち、産学共同でのコンクリート締固めの研究推進、ゼネコンとの共同研究など、最高のコンクリートを作るノウハウの伝承と、それを実現するコンクリートバイブレーターを世に送り出していくことを改めて誓ったのであった。