エクセン物語

社内コンピュータ体制の確立

エクセン物語 第3章
第2話 : 社内コンピュータ体制の確立

 昭和50(1975)年頃まで、草加工場での在庫管理は、よく言えば昔ながらの手法。悪く言えばどんぶり勘定な面があった。品目コードを付け、番号で管理することを提案しても、ベテラン職人ほど受け入れは悪かった。長年の勘で「今まで通りでいいだろ?」、「見れば分かるじゃないか」と主張されることが続くが、しっかり管理していくことの必要性を説き、2年ほどかけて、ようやくシステムを構築。同時に他の社員たちへのコンピュータ教育も進めると、かつてのような事務処理で苦労することがなくなった。

 次にコンピュータ化のターゲットにしたのは、技術部門だった。誰もが普通にドラフター(製図台)を使い、手書きで図面を引いていたのを見て、もう手書きの時代は終わっただろうと、CADの採用を提案。最初に2次元製図システムのCADAM。その後3次元のCATIAも導入。これは会社として大きな冒険ともいえる投資で、あっという間に億単位のお金が出て行った。将来のための必要とはいえ「先代社長がよくこれを許してくれたものだ」と、秀一は当時を振り返る。
 こうしたコンピュータ化の波は後に、さまざまな形になって成果を表した。たとえば、昭和58(1983)年にはIBMS/36により全店所オンラインを実現。Windows95でパーソナルコンピュータが普及すると、すぐに全社員にパソコンを配布し、社内のコンピュータ体制を強化。常に時代の先を見据えた動きがそこにあった。
 また、第二章7で触れている産業機械への進出、同章8の最後に触れた、若手社員中心のCIプロジェクトも社長になる前の秀一が責任者として進めた事業だった。もちろん、これらも当時のベテラン社員たちからは、コンピュータと同様「なぜそんなことをする必要がある?」との声があった。とくに産業機械への進出は異論が多かった。建設機械がどんどん売れている時代だったので、「建機で大忙しなのに、余計な開発をしている暇などない」と、反発の声がひとつやふたつではなかった。
 それでも、今後は産業機械との二本立てを実現すべく、何かよいヒントはないかと海外での市場調査を続け、よいものがあれば自社の技術を生かした、よりよい製品にできないかを模索し続けた。結果、事業として軌道にのるまで10年近くかかったが、後にしっかり会社の売り上げを支える事業へと成長することができた。
 
 その間、秀一は昭和55(1980)年に常務取締役。昭和62(1987)年には副社長として、経営者としての研鑽を積み、平成3(1991)年、二代目義郭の急逝とともに、社長に就任。エクセンという新たな社名と共に従来の建設機械メーカーから「振動応用技術で、世界をひらく」を合言葉に、産業機械の振動スクリーン、振動テーブル、振動フィーダー。食品業界から注目を浴びた漬物テーブルなども世に出していった。