エクセン物語

東京大空襲からの再出発

エクセン物語
第5話 : 東京大空襲からの再出発

 軍需産業に関わらざるを得ない状況、徴兵で減っていく従業員。わずか5名にまで減った林製作所がさらなる試練を迎えたのは昭和20(1945)年5月25日のことだった。
 この日、東京の空にはアメリカ軍のB29爆撃機が来襲し、次々に爆弾を投下。歴史に残る東京大空襲が決行されたのだ。  これにより浜松町にあった林製作所は全焼。大正4年8月15日から30年間もの間に築きあげてきたものは瞬く間に灰となり、後に残ったのは工場の骨組みと焼け焦げた機械くらい。多くの日本国民がそうであったように、茂木もかなりのショックを受けた。
 だが、ここで負けるわけにいかない。「何のこれしき!」の精神で、林製作所の再建に取りかかる。焼けこげた機械でも使えそうな部品は油を塗り錆の発生を極力抑え、焼け跡もすぐに整理。同年には大森にあった中央工業疎開工場の一部を買い取り、新たな出発を図ることにした。

 それは東京大空襲からわずか2ヶ月余り、昭和20(1945)年8月1日のこと。茂木たちは運搬や建設などの全てを社員総出ですることとして広さ30坪ほどの新工場を目指し棟上げを行った。これを見ていた近隣の人々からは「この焼け野原にこんな大きな工場を建てたら、また爆撃の目標になる」との苦情もあったらしいが、棟上げからわずか2週間後の8月15日には終戦の詔勅により戦争終結。奇しくも茂木61歳の誕生日のことであった。
 日本の復興、ハヤシの再建スタートで還暦の第一歩を迎えた茂木はこの日、母の心づくしの赤飯で自らを奮い立たせ、同年の年末には新工場も一気に完成。見た目はボロでも気分は新たに再出発を近い新年を迎えたのであった。
 新工場の最初の仕事は焼けた機械類の整備と諸材料の片付けから。まずは使えるようにならないと話にもならない。少ない従業員で何とか道をさぐりながらそれは続けられ、昭和21(1946)年になると5年半の軍隊生活を終え、陸軍大尉の襟章こそはずしたものの北支から復員した長男の林義郭もそこに参加。「さぁ1馬力増えたぞ!」戦時中の歌の文句じゃないが「月月火水木金金♪」の要領で建て直しにもより一層の力が入る。
 建て直しに心血を注いだ結果は昭和23(1948)年6月になって報われた。この年、米軍に接収されていた佐世保のドック改修工事用として3A型バイブレーター(外径100ミリの空気式3号機)3台の注文を受けたのだ。
 待ち焦がれた春が来た。幸いにも材料や半製品は沢山ある。戦災により火を被ってはいるものの、考えようによっては程良く焼鈍もされている。茂木は早速自宅に保管しておいた製作図面を取りだし、それと首っ引きで格闘(当時、バイブレーターの部品製造や組み立てを熟知していたのは茂木だけだった)し、頑張ること3ヶ月でどうにか製品が出来あがった。さらにテストを行うためにコンプレッサーの整備も行い、バイブレーターの試運転にも成功。ただし、このコンプレッサーは安全弁などはなく、試運転する際はいつ爆発するかわからないほどの危険が伴っていたという。
 そんな努力を重ね、ついに同年10月には完全な製品が完成。茂木たち社員一同は戦後初のバイブレーターということでそこに2301~2303の製造番号を刻印し、梅割焼酎で乾杯しながら喜びの夜を過ごしたのであった。