エクセン物語

ハヤシの誕生

エクセン物語
第4話 : ハヤシの誕生

 創業者、林茂木が昭和9(1934)年に信濃川発電所建設工事で出会ったフランス製のバイブレーター。エクセンの歴史はまさにここから始まったといえます。
 かつて自動車開発に心血を注いだ情熱はそのままバイブレーターへと受け継がれ、その後茂木は最大150ミリまで5機種のエアーバイブレーターを開発。さらにはコンプレッサー設備が不要な汎用機械としてモーターを原動機とした電気式バイブレーター3機種も手がけ、とくに振動体内部にモーターを内蔵した外径150ミリ(2人持ち)の電気4号機は当時としては画期的な製品として大いに注目された。かくして国内のダム工事はもとより、朝鮮・満州・台湾における工事においても「ハヤシのバイブレーター」は大活躍を続けたのであった。
 昭和13(1938)年、茂木はそれまで掲げてきた林自動車製作所の看板を変えることを決心した。新たな社名は林製作所。自動車に対する数々の思い出が詰まった社名を変えることにはいささかの抵抗もあったが、バイブレーター専門メーカーとしての将来に賭けようと考えたうえでの決断であった。
 もっとも、社名を変えたからといって、すぐにバイブレーター専門に事業を移したわけではない。一方では陸軍技術本部の指定工場としての役割も続け、各種の試作研究を行っていた。これは戦争の拡大に伴う時代の流れであり、一億総動員、全産業力を挙げて軍需生産に転換せざるを得ない事情があったからだ。

 その代表作といえるのが、後輪駆動のキャタピラ式随伴砲牽引車。当時の陸軍では、戦場に野砲を運ぶ際は本体を牽引車で輸送し、弾薬は自動車で輸送するという手段が使われていた。これだと手間がかかるうえ、道路外の不整地における弾薬運搬、補給が難しく、敵地への迅速な侵入に弊害が出ていた。それらの問題を一挙に解決したのがキャタピラ式随伴砲牽引車というわけで、豊橋演習場における公試運転でも優秀な成績をあげ軍関係者にハヤシの技術を大いに知らしめた。
 さらには将来の近代戦を想定し、水陸両用戦車の設計試作の依頼も受け「鉄の塊に等しいものをいかにして水の上を沈まずに走るか」と、苦辛惨憺しながらも何とか完成。この戦車のテストは三河の伊良湖演習場で行われ、茂木が自ら乗りこみ砂浜や海を自在に走りまわったという。ちなみに、茂木はかつて所属していた海軍で軍艦浅間に乗りこんでいた。海に対する恐怖感は克服していたはずだが、流石に初めての試験走行で海に入る時は「神に祈った」らしい。
 このような時代背景の中、林製作所はしばらく軍需産業の道を歩み、肝心のバイブレーター生産は満州国より100台近い注文があっても資材統制や原材料の配給や購入も困難な状況が続いていた。また、会社の基礎である人材も召集や徴用で昭和20(1945)年3月にはわずか5名にまで減ってしまったのであった。