エクセン物語

復興への道

エクセン物語
第6話 : 復興への道

 昭和23年(1948)10月。戦後第1号機として製造番号2301~2303の空気式3A型機3台を佐世保のドッく改修コンクリート打設用として納入した林製作所だが、またしばらくの間、バイブレーターの需要はなかった。そのため会社としてやったことといえば、池貝鉄工所より頂いた工作機械部品加工の下請けや味噌つくり機械の撹拌機の加工などなど。仕事の合間には相変わらず空襲で焼かれた機械類の整備に専念するばかり。技術の林、バイブレーターの林としての復興にはまだまだの状態であった。

 それでも当時10名ほどに増えた社員はいつの日かバイブレーターが甦る日を楽しみに汗水流して働き、仕事後はドラム缶に電柱から盗電? したニクロム線をぶっこんで風呂を沸かし、風呂上りには茂木の女房が作ったささやかなオカズで梅割焼酎を飲みながら「異国の丘」「暁に祈る」などを歌いつつ貧しいながらも元気で頑張る日が続いた。
 1年余りもこの状態は続けられていたが、昭和24(1949)年の秋、国鉄本社から茂木にお呼びがかかった。国鉄の電力不足を補う目的を持った直轄工事として第二次信濃川発電所建設についての相談を持ちかけられたのだ。
 それは新潟県十日町に第一発電所を造り、その水をトンネルで16キロ流して小千谷に第二発電所を造るというもの。ついては、この圧力隧道のコンクリート打設について
「昭和9年の第一次建設記録によるとハヤシのコンクリート振動機というのがあるが、今でも製造しているのかね?」
 国鉄の担当者は単刀直入に聞いてきた。

 実はこの時に国鉄に出向いたのは茂木ではなく、まだバイブレーターの「バ」の字くらいしか理解していなかった日大工学部機械科卒の元陸軍大尉殿。
「これは会社の将来がかかった一大事! なんとかモノにせにゃぁ!!」
 エンジニアは緊張しながらも即座に度胸を決め
「ハヤシは昭和9年の創業以来コンクリートバイブレーターを一貫して製造しており、ダム建設やその他でも専門メーカーとして頑張っております!」
 と、営業マンになりきって大見栄を切った。もちろん生産能力や特許についても質問は及んだらしいが、それでも義郭はあらゆる知識を駆使して答え、仕事を受ける手はずを整えた。
 こうなれば後は突き進むだけである。茂木以下全社員は総出で国鉄の工事部長と「いかにして良いコンクリートを打設するか」について論議を交わし、何種類もの試作品を作り約3ヶ月の研究開発の後に「国鉄信濃川型空気式短型」として型式認定も取得。16工区の各請負建設会社向けとして、まずは各工区5台の公開入札に参加した。
 無論、この時バイブレーターを作っていたのは林製作所だけなので、当然のごとく落札とあいなり、昭和25(1950)年3月下旬より会社はいよいよ本格的なバイブレーター生産へと動けるようになったのだ。