エクセン物語

バイブレーターとの出会い

エクセン物語
第3話 : バイブレーターとの出会い

 昭和9(1934)年、大倉商事は国鉄信濃川発電所建設工事に使用するため、フランス製のエアー式バイブレーターを輸入した。その技術説明役として茂木は、大倉商事の依頼で新潟県小千谷の現場に出張することとなり、生まれて初めてバイブレーターを目の当たりにした。そして説明役をこなすとともに、空気消費量効率などに問題があったため何とかこれを国産化できないかとの依頼も受け、かつての自動車の研究と同様、一からバイブレーターの原理研究などを始めたのだ。
 それからの茂木は製造技術の開発、さらには使用上の合理化や現場修理の簡易化にも工夫を凝らし、新たな製品開発を開始。ついには「コンクリートの質を良くする」という意味を表して「コンクリート調質機」という名の国産バイブレーターを完成し、特許や実用新案も得て製造販売へと乗り出した。

 奇しくもこの時期の日本は急激な電力需要の増加に伴い、全国でダム建設が行われていた時代。茂木の作り出した国産バイブレーターはそれまで輸入品に頼るか、竹棒でコンクリートを突き固めるしかなかった日本の土木業界に大いなる新風を巻き起こしたことは言うまでもない。
 また、茂木はダムの規模が大きくなるにつれバイブレーターにも大型化が求められていることを察し、振動部外径50ミリから生産し始めた製品を75、100、150㎜へと次々にバージョンアップ。昭和13(1938)年完成の宮崎県塚原ダム建設工事においては、骨材採取からコンクリート打設に至るまで一貫した機械化を実現した「ハヤシの100ミリバイブレーター(当時の3Aタイプ)」が大活躍し、ダムとハヤシは土木・建設業界にあって切っても切れないものとして認知されていったのであった。