エクセン物語

林自動車製作所の誕生

エクセン物語
第2話 :林自動車製作所の誕生

 32歳。人生にも仕事にも活力がみなぎっているこの時期に自分の会社を立ち上げた茂木だが、資金があったわけではない。もちろん貯蓄もほとんど無く、大きな看板は掲げたが、いきなり本格的な自動車製造への道に突き進むわけにはいかなかった。
 そこで、当時注目が集まっていた自動車タイヤの引掛式から針金式への改良技術(リム改造)により信用を得て、資本作りを開始。同時に鈴木清二氏が創立した東京自動車学校で運転と技術の教官を委託され、大正12(1923)年の関東大震災まで会社経営と運転教官の二足のわらじを履く生活を続けていた。
 ちなみに、この関東大震災では各方面で火災が起こり、茂木も自宅付近に危険が及んだため、自動車1台に重要物や食料を積み込み家族と見習い工、合わせて7名を乗せて代々木練兵所に避難たという。
 震災後の茂木はそれまでの自動車教官を辞め、本業一本に力を入れるようになった。ただ、それは自家用自動車の生産ではなく、水陸両用戦車や随伴砲牽引車(当時の陸軍の編成には砲兵部隊はなく砲は歩兵に随伴するものであった)、無線操縦船設備などの研究試作がメイン。震災の年に陸軍技術本部の指定工場になったことがその理由だが、これにより確実に茂木の知識と技術は磨かれていった。
 昭和4(1929)年、陸軍技術本部の指定工場としての仕事を順調にこなしていた茂木の元にひとつの依頼が舞い込んだ。それは、富国通商(のちの大倉商事株式会社 当時、陸軍の御用商人)が陸軍に納入するために輸入したフランスのルノー社製戦車17台の改修の仕事だった。

 実はこのルノー社製の戦車。輸入したはいいが、オーバーヒートなどで納入検査で不合格となったもの。それに慌てた大倉商事はルノーより技師2名を呼び寄せて再調整するもののメドがたたず、最後の頼みの綱として陸軍技術本部に持ち込まれた曰く付きのもの。それが茂木のところに回ってきたのだから、さぁ大変。
 茂木はこれは腕の見せどころ! と、熟練の工員4名を引き連れ技術本部で必死の作業を40日間余りも続け、そのうちの1台をどうにか納入可能な状態にまで改修することに成功。さらには残りの16台も浜松町の自社工場で大改修を行い、国道1号線を走行しての箱根越えや長尾峠トンネル往復をはじめ、道路外での試運転も決行。充分に実力を出しきれることを確認した上で陸軍に納入し検査にも見事合格させたのであった。
 これにより大倉商事は陸軍への面目を保つことができたわけで、同時に茂木率いる林自動車製作所の技術力に大いに感心。これが縁となり、後に昭和9(1934)年から始まった国鉄信濃川発電所建設工事の件で茂木にも声がかかり、これが今日のエクセンへと発展するきっかけとなった。