エクセン物語

創業者、林茂木。自動車との出会い

エクセン物語
第1話 : 創業者、林茂木。自動車との出会い

会社の歴史を語るうえで創業者の生い立ちは重要な要素となります。そこで、まずはエクセンの創業者である林茂木についてご紹介しましょう。
 林茂木は明治17(1884)年、高知県幡多郡大月町弘見に生まれ、宿毛尋常高等小学校を卒業後、佐賀県の松浦鉱業所芳ノ谷工場で見習工となり社会への第一歩を踏み出した。しかし、当時の日本は戦争の影が刻々と迫り来る時代。茂木は明治35(1902)年になると、呉海軍工廠造機部に入り、2年後の明治37(1904)年から41(1908)年まで海軍現役兵として軍艦浅間に乗艦して日露戦争に従軍。時代の流れとはいえ、この時代の人々は常に戦争という現実が身近にあったわけです。
 そして明治42(1909)年の1月、24歳の冬に茂木は大志を抱いて上京し、山田鉄工所に入社することとなる。この会社は、当時国末金庫店の社長がスポンサーになり自動車の国産化を研究をしていたところで、これが茂木と自動車の運命的な出会いだった。
 入社後の茂木は不眠不休の頑張りで自動車の独学研究を続け、翌年の明治43(1910)年の8月にはタイヤ・チューブ以外はすべて国産品で仕上げた4人乗り2気筒の自動車を完成。警視庁検査にも合格して同年末には映えある「国産自動車第1号」が誕生したのであった。

 山田鉄工所はその後、国末自動車製作所となり、明治45(1912)年には経済界や工業会など財界有志の出資により株式会社東京自動車製作所へと発展。本格的な国産自動車製造への道を進みはじめ、茂木はそこで工場長兼設計主任として日本の自動車産業に大きく関わることとなったのです。
とくに大正3(1914)年に上野公園で開催された大正博覧会に出品する自動車の制作に際しては、スタッフとともに正月休みもなく不眠不休のまま会社に泊まりこみ、16人乗り前向きシートの乗合自動車(バス)を完成。この車は、当時としては非常に珍しいエンジンの上に運転台のあるキャブオーバースタイル。博覧会ではこれが二等銀牌の栄誉に輝き、茂木はさらなる自動車への夢を膨らませていった。
 ところが、ここでひとつの問題が生じた。それは茂木と会社との考え方の相違だった。というのも、茂木はここで完成させた乗合自動車を大いに製造するべきと考え「わが国の将来は各都市で必ずや乗合自動車が必要になるはず」との信念から会社に対して大量生産を進言していたのだが、会社側の意見は「こんな大きな車は日本では使用不可能。第一、採算も取れない!」と真っ向から対立。結局、茂木の主張は認められず、苦労して製作した乗合自動車は博覧会に出品したものだけで生産中止となってしまう。
 茂木の気持ちは悶々としていた。会社の経営方針にも納得がいかなくなったこともあり、会社を辞職してしまう。そして大正4(1915)年8月15日。茂木の32歳の誕生日、現本社ビル所在地(東京都港区浜松町)に林自動車製作所の看板を掲げて自営業への第一歩を踏み出したのであった。