エクセン物語

埼玉県草加市に新工場を建設

エクセン物語 第2章
第4話 : 埼玉県草加市に新工場を建設

 コンクリートバイブレーター専業メーカーとしての地位を築いた林製作所は、 次々に舞い込む注文に応じるため、フル稼働の状態が続いていた。現場の規模・ 場所・型枠やスランプ・打設方法など、あらゆる条件に対応するための 新製品の開発にも積極的で、製品群は60機種を超えた。今後も続くであろう需要と 商品群の拡大のためには、思い切った経営の合理化や、近代化設備の導入も考え なければならない時期に来ていた。
 そこで、昭和38(1963)年、販売部門の建機工業を林バイブレーターと社名変更し、 販売促進とサービスの徹底を図るためのサービス部を新設。翌年に林製作所大阪出張所を、 林バイブレーター大阪出張所に組織変更。生産部門では、さらなる新製品の開発にも 意欲的に取り組み、後のヒット商品となる電気式ダム用バイブレーター、HIBタイプの 試作を開始。
 たまたま蒲田工場の一部が道路拡張に掛かったこともあり、生産体制のさらなる 拡大のため、埼玉県が昭和41(1966)年から総合振興計画として造成した、 草加八潮工業団地内の土地を取得したことも、大きなニュースだ。  そして、昭和44(1969)年に敷地面積1万3000㎡、事務棟、食堂、会議室棟などを含んだ 新工場を完成させ、生産部門を草加へ。本社、営業機能を創業の地、浜松町に戻し、 新たな体制を作り上げた。

esimage2-4a.png 実はこの草加工場への移転は大きな賭けであった。昭和24(1949)年、個人経営から 株式会社化したとはいえ、まだ町工場の域を出ていなかった会社が、ヒット商品を 送り出しているとはいえ、遠く離れた埼玉の地に、今までとは比べ物にならないほど の大きな工場を建てたことは、業界内でも話題になった。それは林製作所の社員も同じで、 「ウチの会社はすごい。これからどんどん大きくなるぞ!」と、自分たちの将来に夢を 感じていた。
 ただ、当時の蒲田工場生産部門には、近くの夜間学校(高校)に通いながら働いていた者が 10人以上いて、草加への転勤を嫌がった。引っ越しをすると、学校を卒業できなくなるからだ。 そこで上層部は草加周辺で受け入れてくれる学校はないかと探し回り、何とか全員の転校先を 確保。若手の育成を継続しながら、移転を実現することができた。
草加工場を建設するにあたり、会社は
① 騒音や振動、その他によって、地域社会に迷惑をかけない無公害工場
② 安全性、動きやすさを第一として、居住空間を広くとった快適な作業現場
③ 省力機械の導入とロスタイムを少なくする合理的なレイアウト
④ 植樹による緑化で環境の美化を図る
との基本方針で、蒲田工場のイメージを一新した。夏は上半身裸で汗だくになりながら 仕事をしていた職人たちが、中堅企業の技術者の顔になっていった。
 その間、創業者の林茂木はコンクリート振動機の発明・普及に貢献したことにより、 黄綬紋章を受章した。昭和42(1967)年には勲四等瑞宝章を受章。さらに同年、 経営の合理化に努めた功績により中小企業庁長官より第1回全国表彰5社のうちの1社として 表彰されるなど、会社全体がよいニュースにわいていた。