エクセン物語

高度経済成長に乗って販売網を拡大

エクセン物語 第2章
第2話 : 高度経済成長に乗って販売網を拡大

 昭和30(1955)年、日本は朝鮮特需による神武景気に沸いていた。 それまで引きずっていた戦後という表現は消え、昭和33(1958)年からの岩戸景気にも引っ張られる形で、 高度経済成長が進んだ。名神高速道路、東海道新幹線といった日本の大動脈が整備され、 大型ダムや高層ビルなども数多く建設されるようになった。

 工事が増えれば機械もより一層の量産と高性能化が求められる。 ハヤシも全社挙げて各種建設工事に対応した新製品開発を積極的に進め、
・土木建築用として、フレキシブルタイプで原動機が電気モーターのMF/原動機がエンジンのEF
・二次製品工場用の振動モーターやテーブルバイブレータ、エアー式振動モータのKF
・隧道用エアーバイブレータの1P/2P、道路用のRF
などを数多く世に送り出した。また、
・高層ビル基礎工事用の振動杭打機
・コンクリート舗装道路用のロードフィニッシャー
などの大型機も他社に先駆け完成させていたが、とくに小型コンクリートバイブレータの需要が多く、 生産に手が回り切らず、やむなく生産を中止。会社としてバイブレータに力を注ぐことを方針とした。 その背景にあったのは、従来のバイブレータ(EB/1E)がモーター直結式だったのに対し、 新たに開発したMFやEFはモーターなどの原動機と振動部をフレキシブルホースと フレキシブルシャフトで回転を伝え、格段に使いやすくなったことがあげられる。

 しかしながら、MFやEFタイプは回転数=振動数なので、より多くの振動を作りだすためには 高回転(1万回転以上)で動かす必要があった。するとどうしても故障が増える。故障が増えれば アフターサービスに出向く回数も増えるということで、昭和32(1957)年、西日本での販売、 サービス部門の強化を図るため、林製作所大阪出張所を開設。翌33(1958)年には工場から 独立した販売会社として、建機工業株式会社を設立し、販売修理サービスのための部品や 工具を詰め込んだリュックサックを背負い、バスや汽車を乗り継いで東奔西走。 その際の服装といえば、長靴に作業服が定番だった。

 一方、生産部門(2階建ての工場=現本社所在地)では、連日のように職人たちが朝から晩まで、 真っ黒になりながら生産に追われていた。販売が100台を超えると、茶封筒に入った臨時ボーナスも 支給され、港区内で1、2位を争う給料の良い会社とのうわさも出たという。ただし、 職人たちは宵越しの金は持たない。お金が入るとすぐに芝公園内にあるダンスホールを貸し切り、 よく遊び、よく飲んでいた。

esimage2-2a.png 当時浜松町の駅は薄暗く、現在の汐留通り一帯は小さな電材屋、コード、配電盤、 電管パイプ、継ぎ手等々電気に関しての部品加工、販売店が軒を連ね、ほとんどが2階建て。 後の貿易センター敷地は都電の操車場跡地として雑草が生えている状態。唯一、できたての 東京タワー(昭和33年=1958年12月竣工)だけが、やたらと高くそびえていた。